会社概要にもあるように私ども大芳グループの行動原理は"他社とはまったく異なる視点で行動をすること" です。この考え方は、当社が会社として成立するずっと前から脈々とDNAに刻まれるようにして現在にまで受け継がれてきたものです。
なぜこのような考え方が受け継がれてきたのか、少しだけその歴史についてお伝えさせてください
~大芳産業のDNA~(ランゲッジ・ヴィレッジ創立10周年記念祝賀メッセージ)より
1920 年代、大芳産業株式会社の立地する静岡県富士市大渕(当時は大渕村) は水無し村として有名でした。河川や湖水は皆無な上に富士山の溶岩によってできた大地は井戸を掘ることも困難で、常に水不足に悩まされていたからです。
そのため、産業といえるものはほとんどなく、農業も稲作はもちろん、水が必要となる商品作物はほとんど栽培できませんでした。
当時、秋山家はそのような環境の下で、非常に貧しい農家ではありましたが、第二代当主秋山政吉は非常に好奇心旺盛で今でいうベンチャー精神あふれる青年でした
「溶岩によってできた乾燥した土地」という農業には絶望的ともいえる条件の下でどうしたら価値あるものを作り出せるか。政吉はまず、この環境の本質は何かを考えました。 「溶岩によってできた乾燥した土地」は見方を変えれば、「水はけのよい土壌」です。
彼は、この環境に適した商品作物で最も価値の高いものは何かを調べました。その結果、「ぶどう」に目を付け、「ぶどう」の産地として有名だった山梨県まで出かけて行き栽培技術を身に着けました。
試行錯誤の末、大渕の土地は「ぶどう」の生育に適しているという確証を得、借金をして広大な土地を取得します。
ようやく作付けが終わりに差し掛かったころ、突然の不幸が政吉を襲います。なんと「腸チフス」にかかり間もなく亡くなってしまうのです。
残されたのは、年老いた両親と妻と子供たち、そして広大な土地と莫大な借金です。この時、政吉の長男である三代目の芳男はまだ十三歳。ですから、家計の責任は妻シゲの一身にのしかかりました。
当然、「ぶどう」の栽培技術は政吉以外、大渕村の誰にも分かりません。作付けが終わったばかりの「ぶどう」は諦めるしかありませんでした。
しかし、そんな貧乏のどん底でもシゲは土地を売りませんでした。この土地を維持し、この土地を活用して生活する道を選んだのです。
まずは、当時大渕村にてすでに一般化しつつあったお茶の栽培に切り替え、お茶農家として再出発します。その後、芳男が成長し、彼の手で製茶工場を立て、お茶の自園自製までを行うようになりました。そして、その傍らで紙より紐の製造工場も立ち上げ、四代目の政美に継承された後、お茶の自園自製に加え、販売までも手掛けます。それから、強化プラスティック加工業、法人としての大芳産業の本格的事業である物流倉庫に繋がっていき、ランゲッジ・ヴィレッジ事業に至ります。
その時代ごとに時流を読み、自らが持つ経営資源の「本質」と市場の潜在的需要の「本質」との接点を考え抜く経営を行い、それを継承していく姿勢はまさに、志半ばでこの世を去ることとなった二代目政吉のDNA を受け継いでいることの証であると確信しています。
これからも、大芳産業株式会社は、彼自身の行動原理でもあった「他(人) 社とは全く異なる視点で行動すること」、そしてそれをさらに昇華させて導き出された企業理念である「物事の本質を捉え、市場の現状がその本質と外れていると判断した場合に、その溝を埋めることで絶対的な価値を提供すること」に基づいて私たちにしかできない価値を世の中に提供し続けていきます。
コーポレートロゴについて
富士山麓でブドウづくりを志した大いなる創業の精神に則り、常に物事の本質を追求する経営によって社会における芳醇な存在であり続ける意志を表現しています。